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松永天馬 作「神待ち」を読んで。

2016/05/06追記

松永天馬 作「神待ち」を読んで。その2 - uを書きましたのでそちらをご覧ください。




「自撮者たち 松永天馬作品集」に収録されている「神待ち」について読書感想文を書いてみる。

自撮者たち 松永天馬作品集

自撮者たち 松永天馬作品集

「神待ち」についての考察

「欲望」の物語

本作は、欲望を主題とした物語である。
ここで言う「欲望」とは、「欲望されることの欲望」であり、哲学や現代思想精神分析なんかで呼ばれるやつだ。(とは言え、そのあたりについて以前本を少し読んでみたものの、自分自身もいまいち理解できていないので誤った事を書いてしまっているかもしれない。)
単なる生理的な欲求とは違う意味での欲であり、他者から与えられるもので、手に入れたと思うとさらに次の欲望が芽生えてくるような性質のものを言うらしい。
いわゆる承認欲求だとかそういうものが該当すると思うが、欲求と欲望の使い分けの観点から混乱しそうな語だ。

本作は、あらゆるものがメディア化される世界の中で、主人公の少女「いづみ」が欲望を抱いていたが、それを打ち破ろうと抗うという話だと、僕は解釈した。

欲望のシステムと作中のキーワード

「欲望」の物語である、と思いついたところから、この構造を読み解くために現代思想だかの記述を調べてみたところ、「欲望」の成立は以下のようなものであるらしい。

  1. 「欲望」は意味実現の欲望である。
  2. 「意味」は差異のシステムで実現する。(何か別の対象が無い=差異が無い場合は意味を成さない、ということ?)
  3. 差異は他者を前提とする。
  4. 「他者」の欲望によって自らの欲望を形成する。

何を言っているのかわからないかもしれない。僕もいまいちよくわかっていないのだが、以下の等式が成り立つのではないかと考えてみた。

  • 欲望=映画
  • 意味=少女性
  • 他者=神

左辺が欲望の要素としての言葉であり、右辺が本作に登場するキーワードだ。
これらのキーワードについて、本作においてどのような解釈ができるかを考える。

映画
具象化した欲望。神の代表(の可能性のある一人)であるカントク(またはその他の神)に映画の主演女優として抜擢される、つまり欲望されることを主人公いづみや量産型少女達が欲望する。
少女性
欲望され消費される対象としての意味である。いづみのJKというブランドであったり、前髪を切りそろえ純白の制服に身を包み、「理想」とされる姿と化した量産型少女達の姿に意味づけられる価値だ。
欲望する他者として、それは誰でもあり、私達自身でもあるし、誰でもないかもしれない。カントクはその一人として顕在化した人物。

さらに、舞台装置として登場する物たちの解釈についても考えてみる。

ラーメンドンブリ
近未来的な世界観ながら大衆的な料理であるラーメンに、欲望渦巻く混沌、欲望の視線としての世界を象徴している。
HD(ハードディスク)
SNSなどを含むメディアや、人々の記憶として、また公共としての世界。そのシステム。
世界に対する異物であり、爆弾や銃弾となり、反抗する意思の行為や意思の顕れであり、ドラマの駆動装置として機能している。

物語の解釈

物語を構成する要素については前述のとおり解釈を行ったが、物語としてどのように解釈できるかを粗筋に沿って考えてみる。

主人公「いづみ」は、この世界で欲望されることを欲望する、少女性を消費されることで自らを満たす、どこにでもいる少女の一人である。いづみ、とは "It's me"=「それは私」、つまり読み手を重ねている、かもしれない。
神の一人であるかもしれない「カントク」。いづみら少女達からすれば、自らを主演女優に抜擢する、つまり自らを少女として欲望するであろう男。彼は醜く下衆な人物として描写されているが、それは彼女が自ら彼を欲望することはない、あくまで彼が欲望することで自らの欲望を満たすだけの存在として描写されているのだろう。

この世界はあらゆる場所に監視カメラが設置されている。それはSNSにアップされる写真・動画であり、つぶやきを綴る者の耳目であり、欲望する無数の他者による視線だ。
カントクのすするラーメンの丼に混入した異物である「指」は店員に回収された後爆発し、店員や店の一部を四散させる。このテロリズムは欲望のシステムに支配された世界に対するレジスタンスの行為と意思である。

こんなテロに遭いながらも、いづみは自らを主演女優として選ばれる事に執着する。
そこに登場した量産型少女達。彼女達も主演女優として自らを選ぶよう求め、カントクの指示に従い屋上より次々と飛び降りる。
欲望する他者の求めるまま、血肉の薔薇を地面に咲かせる事になるが、生命ではなく少女性の散華であると作中で記されている。一例として、魅力の無い男性からの性交渉の求めに応じその少女性・処女性を失わせながらも欲望されることによって一時的な満足を得るなど、浅はかで愚かな、悲しい性を喩えているのだろう。

いづみの番となるが、彼女は量産型達のように飛び降りる事はせず、HDを破壊する。ここで自らを幽霊だと宣言する。つまりは実態はなく、少女性そのものだという宣言だ。いづみは概念としての存在であり、読み手であるという論を補強している。

彼女はカントクに銃口を向ける。自らの薬指の銃弾でカントクの頭蓋を切り裂く。メディアおよびそのシステム、また欲望されることへの拒絶と受け取れるが、小指ではなく薬指である事の含意については今のところ上手い解釈を見つけることができていない。
その後、飛び降りるのではなく空へ飛び立った。

しかし、彼女は小指となりラーメンドンブリへ着水する。
冒頭のラーメンドンブリへの小指混入へループするわけだが、つまり彼女はこの世界を支配する欲望のシステムに対し爆発により抗うことを示唆されている。
革命のような劇的な展開は訪れず、また誰かが同じことを繰り返すのだろう。いくら爆破を繰り返しても、次のラーメンドンブリは待ち構えている。
欲望されることを求めるのは自ら満たすことができない、それこそ「欲望」を抱いているからだが、自らが欲望する側に、つまり神になろうとしても、そのシステムの中の役割を交代しただけで、システムそのものへ抗うどころか補強してしまう。
人間の欲望が世界から無くなることなど無い。それでも、この欲望のシステムに対して抗う事の意義を問うているのだろう。
欲望のループからの脱出。仏教で言う輪廻からの解脱になぞらえているのかもしれない。

消費される少女性、負債としての中年男性

欲望を細分化したテーマとして、少女性の消費が本作で著されている。
少女性の消費というのは、手垢に塗れたテーマではあるが、それだけ普遍的な問題なのだろうから、個人の感想を記すに留める。

僕は少女ではないがそれだけに少女への憧れは強い。
少女性を獲得できずに悲嘆する僕のような者にとって、生まれながらにして少女性を得ている者はむしろ羨ましくさえ思った。
一部を除き、中年男性など欲望されるどころか価値はマイナス、負債であり産業廃棄物だ。犯罪者扱いで嘲笑の的だ。
いささか被害妄想気味ではあるが、自己評価が低く少女に憧れる僕にとっては、少女性とはすなわち宝物のようなもので、産まれながらにして宝物を抱えている彼女達は天上人のようなものだった。
僕が天上人と崇めるのも、欲望するという一つの行為だろう。

彼女達は少女と看做されたときから、本人の望むと望まぬとに関わらず、少女としての価値、少女性を抱くものとして、言い換えると少女性の容れ物として欲望されるようだ。
そして当事者でない僕はそれがどれだけ深刻な影響を与えるか想像が及ばなかった。
彼女達が受ける悪影響について、暴力的な言い方をすれば、中年男性は子供の頃から貧乏で、少女性の資産を持つことができず他の資産を稼ごうとするが、彼女達はあるとき少女性という莫大な資産を子供の頃に与えられ、それは時を経るにつれ勢い良く資産価値が目減りしていく性質で、何もせずに気付いたら一文無しとは言わないが、生活レベルを落とすことができずに破産してしまう、ということなのだろう。

それでは、他者とりわけ男性に対して「少女性を消費するな」と主張するのが有効な手立てとなるだろうか。
否である。
少女性を欲望しているのは男性だけではないし、あらゆる者が少女性は無価値であると認識しなければならない。少女自らが少女性を排し、新たな価値を作り上げるしかない。
アメリカ人のような美的感覚を獲得し、子猫よりも虎、トイプードルよりピットブルを価値ある存在だという文化を作り上げれば、誰も少女を消費することなどないだろう。

どうしても嫉妬深い書き方になってしまった。こうやって嫌われていく。

少女性の消費に対する本作の立場

それでは本作は少女性の消費について否定的な立場を取っているのか。
一見、少女性の消費に反対の立場を示すような描写がされている。少女性を消費・欲望する他者の代表として描写されるカントクは下衆で下品で醜悪極まりなく気味の悪い中年男性だ。そして主人公は少女性が消費・欲望されることに対して反抗する。
しかし、それでも少女性を欲望する世界のシステムは強固なままだし、なにより登場する少女が少女性を纏って描写される限り、少女性を欲望する読者にとっては少女性を纏う少女は善であり、対極にある醜い中年男は悪なのだ。
つまりこの作品は構造的に少女性の消費に対して否定的な立場を取っていないし、少女性が欲望される事実を書き綴られることで、少女性は価値があり欲望されるものだという意味づけが、もしかすると無自覚に行われているのだ。

当然、著者が誰かを思えば、彼が少女性を欲望しているだろうと考える事はむしろ自然だ。
彼の少女への執着は他人事と思えないが、表向きなりにも少女性の消費について自戒している様とそこにどのように至ったのか、それを考えるとまた楽しくもいびつな感情が芽生えてくる。


余談

近未来的要素を配しながら現代と地続きの、どこか懐かしいサイバーパンク的な世界観。サイボーグ登場したり、字幕で会話してみたりと、特に必要が無いのではないかという設定はどこか二十世紀末を彷彿とさせる。その頃に現代思想精神分析などが流行った気がするのだが、そこへ結びつけるためのものだろうか。
また、作中の地の文でも比喩されているが、書割のような背景を持ってきたり小劇場の舞台セットなのか、贋物ぶりを感じさせているのは、意図的なものと考えた方がよいのだろう。
説得力がある文章を書こうとするには写実的な描写をした方が容易だろうに、そうしないのはむしろ書割のような贋物の世界こそが、ある視点ではリアルなものだということを主張しているのか。
メイクとすっぴん。作中で登場したその言葉と丁度対応する対比だ。