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松永天馬 作「神待ち」を読んで。その2

以前、「自撮者たち 松永天馬作品集」に収録されている「神待ち」について読書感想文を書いてみた(http://usym.hatenadiary.jp/entry/2016/03/17/001911)のだが、その後読書会にお誘いいただいたり、関連の深い楽曲が発表されたり、前回援用したラカンの理論について少々勉強したりして考えも変わってきたため、改めて感想文を書いてみたい。

自撮者たち 松永天馬作品集

自撮者たち 松永天馬作品集

改めて「神待ち」についての考察

今回は主要なキーワードであると考えられる「神様」や「結婚」に焦点を絞って考えてみる。

「神様」の正体

タイトルにも使われ、作中に言葉が登場するものの、その正体はおぼろげな「神」/「神様」とは何か。

アーバンギャルドの楽曲「少女のすべて」の歌詞にも登場する「はじめに言葉ありき」、これはキリスト教新約聖書の言葉であり、そこでは言葉はすなわち神であると記されている。ここでラカンの理論を持ち込むと、神とは他者、言葉、規範が該当し、象徴界と呼ばれるものだと考えると収まりが良い。
もちろん日本においては宗教観も言語もキリスト教文化圏とは異なっており、この認識には大きくずれが出てくるだろう。

「この国は一神教の国じゃない。多神教というのかアミニズムっつーのか、要するに神様は至る所にいる。(中略)だからまがいものみたいな自称神様は腐るほどいるだろうな」
「だけど神様は神様、結局、贋物も本物もないでしょ?」

作中でこのように語られている通り、日本において神は一神教のような絶対性はないし、規範や掟に値するものではないかもしれない。何かを与えてくれる、その価値観を共有する、言葉は悪いがご機嫌を伺うような相手のようなものだろうか。相手、とは言っても特定の人物などではなく、漠然とした集合と考えた方がよいだろう。
象徴界というものが日本においてまともに機能していないという話にもなるが、これは昔からの風土的なものであるのかもしれないし、日本が歪んでいるのか、日本においてはあてはまらないのか、そこはひとまずおいておく。
ただ、規範が弱く習慣や感情や他人の目という不安定でうつろいやすい価値観にさらされている状況だということは言えるだろう。
特に現代においてSNSなどネットやメディアによって量的に過剰なコミュニケーションを、多くは小さな集団の中で強いられる時代において、それは殊更だ。

この「習慣や感情や他人の目という不安定でうつろいやすい価値観」こそが「神様」の正体だと言える。
「神待ち」とはつまりその「神様」に選ばれる、「神様」の価値感により高く評価される、欲望されるということであり、身も蓋もなく書くと、小さな集団の中で、不安定でうつろいやすい習慣や感情や他人の目を気にしてその中でチヤホヤされることを望むことだ。

このように書くとこの世界はなんと醜く低俗で価値の無いものだと思えてしまうのだが、幸か不幸か「神様」とはたくさんいるのだ。先ほど書いた「神様」の正体とはその一つに過ぎない。それが貧乏神かご利益のある格式の高い神様か、どの神様を拝むかは自分次第である。

主人公のいづみはそれまで囚われていた「神様」に決別しながら新たな「神様」を自ら選ぶ。
次なる「ラーメンドンブリ」へ飛び込んだのは新たな「神様」の欲望の渦へ飛び込む事であり、それが「小指」であるということは、その世界を爆破することに自覚的であるということだろう。

本作の箴言をざっくりと言うと、自らの価値観や生き方を自ら決めろ、ということだ。
「神様が現れる」というのは神を待つ人々にとって受動的な表現だが、自ら「神様」を選び取った者だけに「神様は現れる」のだ。

「結婚」しましょう

いづみとカントクの決別シーン、彼の頭に打ち込まれたのは小指ではなく薬指であった。これは文中で明確に「求婚」であると示され、それは受け止められたとも明示され、彼らは「結婚」したのだ。
しかし「まがいものの神様」であるとカントクはいづから決別されたのではないのか。
結婚という言葉が示す、ロマンティックで甘やかで幸福な事柄であるという認識からすれば違和感を覚える。(勿論、人によっては人生の墓場であるとか負のイメージが強いかもしれないが)
それは著者が自らを投影した中年男が少女より求められるという薄気味悪い夢想なのだろうか?

本作の序盤、カントクと支配人の会話で、男女間の異物混入により子供が生まれ、それは二人を引き裂くのだと示された。
いづみの薬指がカントクの頭に打ち込まれた結婚はこの異物混入であり、そこで子供が産まれたのだ。かつてカントクであったもの、かつていづみであったものもその元の姿を保つことは無く、新たな世界に落とされた小指、赤ちゃん指が生まれた子供ということだろう。
「小指はわたし自身となって」という表現は、子供は産まれたばかりのころ、母親と自らを分別できない様子を示しているのかもしれない。そうすると「まだ見ぬ別れを決意しながら」とは、革命をおこすつもりの反乱分子としての赤ん坊が母親といつか別の存在であることに気付くことの予感を示しているのか。

つまり、本作における「結婚」とは、社会制度上の婚姻であったり、肉体上の男女の交合などを示してはいない。
自らや相手の意識が大きく変化する、革命のような、快楽というよりも享楽に近い苦痛を伴うような、表面的なものだけではない深い関係性を持つ事を暗喩しているのではないだろうか。そして、そのような関係性を持つことで、両者ともそれまでと同じではいられなくなる。変化という再生を伴う死を迎えるのだ。

余談

アーバンギャルド/ふぁむふぁたファンタジー


アーバンギャルド - ふぁむふぁたファンタジー

この曲が発表された時には「神待ち」を読んだ人には両作品の関連やモチーフの重複に当然ながら気付いただろう。
PVにおいては薬指が切断されながらロケットやミサイルのようなものに変化し、最後は地球を爆破する。新婦に扮した浜崎容子がウェディングドレス姿で新郎に扮した松永天馬に駆け寄ったかと思うと、ブーケに仕込んだ短刀で刺し殺す。
歌詞でも結婚について語りながら「わたし白馬の王子様になると決めた」と宣言するのだ。
歌詞ではないが、曲が演奏される前後のセリフとして「運命宿命、自分で決めろ」「結婚(血痕)しましょう」という言葉が示される。
この曲が「神待ち」の主題について考察するためのガイド、補強材料となった。

またも余談だが「ふぁむふぁたファンタジー」に登場する言葉より連想するのが「少女革命ウテナ」だ。
主人公である天上ウテナは少女であるが白馬に乗った「王子様」にあこがれ自ら王子様のように気高く生きる、というキャラクターだ。そしてEDテーマはJ.A.シーザーの「絶対運命黙示録」である。
おそらくは元ネタとして意識的に使用しているのだろう。詳細な関連性や意味づけについてはテレビシリーズを十数年前に流し観したぐらいで記憶も曖昧なので誰かに考察して欲しい。

余談中の余談

前回の感想では、本作を欲望の物語であると書いた。
間違っているわけではないが些か大上段過ぎた。著者の作品においてはこの欲望という人間の精神に関わる根幹のしくみは繰り返し登場してきており、いきなり総論的なものを求めすぎたようだ。
フロイトラカン精神分析理論については、著者はおそらく影響を少なからず受けているだろうと思われる。アーバンギャルドによって提示された言葉や概念など、これまであまり理解できなかったものも、この理論を知ることで多くのものが繋がったような気になった。(私としては入門も初歩の初歩で門扉に片足をようやく突っ込めたかというとこだが)
本作中に提示された欲望の仕組みからフロイトラカンの理論への関連を思い至ったのだが、よく考えてみればアーバンギャルドがよくテーマとするものとして、所謂「メンヘラ」があるわけで、精神分析的アプローチを彼が持つことはごく順当なものだったのだが辿り着くまで時間がかかったし遠回りし過ぎた。自分の愚鈍さを示すことになってしまった。