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松永天馬 作「自殺者たち」を読んで。その2

初回の感想ではこの作品の構造と寓意を読みとくというアプローチで解読を試みたのだが、その後の読書会で気づかされた事や副読本からのヒントにより、感想が大きく異なるものとなった。

アニメーション的描写とその機能

私の読み方はつい構造的な面に着目してしまいがちなのだが、この作品の構造は実は描写の側に示されていた。読書会の中で挙がった意見として、「背景の描写は細密なのに登場人物の描写はぼやけていて粗い」というものだった。
かつて押井守が「イノセンス創作ノート」で「アニメは情報量の多い背景に対し情報量の少ないキャラクターを配することで成立する」という旨(かなり大雑把な意訳だが……)を記した。
つまり「自撮者たち」は小説という形態ではあるが、描写しているのは「現実」的抽象レベルの世界ではなく、アニメーションとして描かれた世界ということだ。物理法則を無視した登場人物の行動や、メタ的描写もこう考えれば全て理解しやすい。
そして、このアニメーション世界的描写は作者のどのような意図の表れなのかは後述する。

イノセンス創作ノート」では、レイアウトを近景、中景、遠景の三つの領域に分けて、以下のように各レイヤーによる機能を持つと記されている。

  • 近景
    • キャラクターの領域
    • 表面上の物語が進行し、観客やアニメーターが一致して目的意識的に振る舞う場
  • 中景
    • 世界観を実現する場
    • 演出家の目的意識がもっとも支配的な場
    • 最も充実した、情報量の集中する場
    • 真の物語はこの領域において常に進行する
  • 遠景
    • 監督の秘められた物語が展開される領域
    • 最も抽象度が高く、観客にとって最も理解し難い、無意識の領域でもある

小説という形式とアニメーションという映像の形式の表現技法の違いはあれ、本作にもこのような機能分類が当てはまるようにも思える。
遠景とは何かを指すのは難しいが、押井守としては「鳥が飛ぶシーンなど」とのことであり、本作においては「パルプ雑誌『日没』」やヘンリー・ダーガー作品などの表面上の物語に寄与しないオブジェクトの背景描写だろうか。

20世の終わりから遠く離れて

さて、本作の副読本として、おそらく大きな影響を受けたであろう書籍が 斉藤環 著「戦闘美少女の精神分析」だ。
この本は当時よく名前を聞いていたものの、これまで読まずにいた。しかしキーワードとして出てくるファリック・ガールという男根を持つ少女のイメージは、「自撮者たち」の主人公である憂子やライバル役の舞舞子、また背景として登場するヘンリー・ダーガーのヴィヴィアン・ガールズに引用されているのだろうというと思い至らないわけにはいかなかった。
ちなみに「戦闘〜」においても、漫画やアニメーションの描写として、「漫画のコードは(中略)背景は細密に書き込んでよいが、人物はあくまでも記号的省略によって描かれなければならない」と述べられている。
「戦闘〜」ではそのタイトルに反し、メインとして扱われるのは「おたく」の側であり、(戦闘美)少女は空虚な存在と述べられている。この本の結論を極めて雑に書くと、フィクションの戦闘美少女を欲望の対象として消費し、他者を必要とせずに完結する在り方を肯定的に捉えている。

本作においては「オタ」は動物的消費行動を行う空虚な幽霊として描かれ、少女は「人形」と呼ばれながらも欲望を抱き懊悩する存在だ。
かつて、社会の表層としては、男性は主体的に欲望し、女性はその欲望の対象として受動的な役割を与えられていた、と言われる。しかし今やその主従関係は逆転し、女性の欲望に沿って男性はその対象とされたり、または無視される役割が顕在化してきた。表面上の欲望のパワーバランスが傾いたのだろう。
空虚な空想上の存在であった2次元の戦闘美少女達は3次元の少女達の欲望と結びついた。「2.5次元」という表現・概念が標榜されだしたのはもう暫く前だ。かつて2次元の中に存在した「かわいい」は3次元に浸透し、「かわいい」の再生産と先鋭化の主体として、この国の少女達は神通力を持った巫女や神として君臨した。
男達はどうかといえばただ動物的に欲望を充足し続け、また幽霊として空虚な存在として、それは一切本作で肯定的な様子をもって描かれてはいない。

「自撮者たち」において、なぜアニメーション的描写を行ったか。
それはこの舞台となるが男性の欲望に支配された世界であることを表現していると考えられる。それではいささか古臭い紋切り型の切り口なので、もう少し正確には男性的欲望が拡大したその先、あらゆる人々がかわいいという呪力に魅入られた現代日本の価値観および規範、とでも言った方がいいだろうか。
憂子のつぶやく「死にたい」からの終盤における短いカット割りや混沌としたイメージの応酬はそのままエヴァンゲリオンTV版最終話を連想させる。
共通点としては、主観的レベルにおける世界の変革が表されているし、それが必ずしも理想的な結末を迎えるかどうかは楽観視できないことも思わせている。

出発、巣立ち、逃走、旅立ち、失踪という、希望

だが、それでも憂子はその場から出発しなければならない。
語られた物語の中で、主人公やそれと同等に重要な人物が、それまで居た世界からどこか知らない遠くへと旅立つという結末を迎えるものは多い。
個人的にはこのような結末の話がとても好きなのだということに気づいた。
この出発とも、巣立ちとも、逃走とも言える行為こそが、ある種の人々にとっては極めて希望に満ちたものと言える。
この巣立ちは成熟の一歩の一つと言えるかもしれない。もちろん、次に訪れた先で待っているのは転落や退廃かもしれない。ただ、その向かう先は知らない場所であることが重要なのではないか。
まだ見ぬ場所へ旅に出ること、知らない街へ生活の拠点を移すこと。
そして死ぬこと。
何も本当に死ぬことは無い。死と言うよりも生まれ変わること、今のこの場所ではないどこかへ行けるのではないかというのは希望につながるだろう。
現代はメディアや情報技術が発達し、遠く離れた世界のことも知らされた、知った気になってしまい、空想の余地を見失ってしまっている。
だからこそ、知らない場所と、そこへと向かうことが出来るという可能性こそが希望の一つだ。

出ていく者があれば残されるものがいる。
成熟や、大人と子供という話として、出て行くのが成長した雛であるとしたら、残された者は親鳥であったり、未成熟の雛ということになるのだろう。
たとえば自らの居る場がいろんな人々の通過点だとして、そこから出て行く者があったとしても、さみしいことだが悲しいことではない。
そうやって変化し続けることが希望で、別れは喜びと捉えなければならないのではと、年老いて飛べない雛鳥は思う。