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松永天馬 作「自殺者たち」を読んで。

物語が示す世界観と現状認識

自撮者たち 松永天馬作品集

自撮者たち 松永天馬作品集

今回は本書の表題作である「自撮者たち」の感想文を書く。
例によって著者の書く荒唐無稽な世界は現実社会の寓意であるはずだ。

「人形」としての少女

本作で登場する少女達は「人形」であると示されている。
人形は「自発性は皆無だが大事にされる権利」を獲得した者達だ。
主人公である憂子はあらゆる欲望を抱えていることを表明しているが、これは自発的な意思ではない。手に入れられないものを手に入れようとする欲望は、他者に欲望させられたものだ。

人形である彼女達はその肉体が無残に破壊されても物理的な死は訪れず、他者の意思により何本ものペニスを縫い付けられてもタトゥーを入れるよりも容易く受け入れている。
身体としてのリアリティの欠如をこれは示している。

このペニスを宿した少女とは、ただエログロ趣味のためだけに登場したのではないだろう。
たいした理由も無く殺し合いを行う彼女達は、精神科医の斎藤環が「戦闘美少女の精神分析」にて示した「ファリック・ガール」(ペニスを持つ少女)であることを示している、のではないか。(歯切れが悪いのはまだ未読なため、インターネットから情報を拾ってきたため。)
ファリック・ガールは自ら性的な魅力について無自覚、無関心であるらしいのだが、欲に塗れ、自らの性的な魅力を自覚している彼女達が「無垢」だなどと到底思えない。欲望をコントロールできるほどの自己が確立していないとは言えるのかもしれない。
ペニスを持つ少女とは、去勢された男の都合の良い欲望の対象としての記号だろう。
少女が人形として描かれているのは、それがこの社会が望んでいるものであり、それにより彼女達自身もそれを望んだためだ。

「幽霊」としての男

JST劇場に集うオーディエンスである「オタ」達は「幽霊」と表されている。
七十二億人の幽霊は本来性別を問わない者であろう筈だが、本作の物語上の役割としては、ペニスを喪った彼らは不特定多数の男達を示していると考えられる。
幽霊とは社会的に肉体の意味を失い、匿名化された者達の事を示している。

彼らの喪われたペニスとは力の封殺や男性性の忌避を示している。これもまた社会によりそう望まれたものだ。
封殺された力を得たのはこの作品で示されている通り少女の側だ。

一方、登場する男の一人であるパパことパラノ助蔵。彼は七十二億のオーディエンスを抱えるJST444の総合プロデューサーという権力者である。彼は力を封殺されたとは思えないが、辻斬りに半身を分断されても生き続けるという身体のリアリティの無さだ。
ゴシップ誌の記者である林林も地上三百三十五階の窓ガラスをすり抜けて来るという見事な幽霊ぶりである。

身体のリアリティと価値

現代の都市に生きる人々が形作る多層的な社会、とりわけ重きを置かれたSNSなどインターネットによるコミュニケーションの中では、時に身体、肉体は軽んじられリアリティを失ってしまう状況を比喩しているのだろう。
「人形」と「幽霊」共に、その性質は異なりながら。幽霊である男達はその肉体が無視され、人形である少女達は肉体の過剰さによって。
この社会の欲望する方向として、少女の身体は価値の高いものであり、男の身体は無価値どころか有害とされる。そのような認識の中で、この社会の中で「人形」であること、また「幽霊」であることを望まれながら本人もおそらくは望んだ、または望まされているのだろう。

「自撮」へ向かう少女達の欲望

少女達はなぜ「自撮」を望むのか。
それは自己アピールであり、自らを望む形への編集。その表現は自傷に繋がる自らを罰するものであったり、自己の固定すなわち死、自殺の代替であると示されている。自己同一性への懊悩を解消するものであり、すなわち「人形」になりたいという欲望に繋がるものだと。
人形化とは自己同一性確立の放棄であり、それはすなわち他者から容易に強い影響を受け、他者と自らの区別をつけられない状態である。
自己同一性確立の困難さとして、「本来の」自分と、編集した(自撮した)自分との乖離、無垢さと性的魅力という相反する属性を望まれるという状況もあるのだろう。

大人になるということ

著者の作品は同じ事を手を変え品を変え繰り返し主張し続けているのだということを改めて感じた。
本作では自らの意思を持たず欲望に駆られて生きる者達の破滅、不幸な末路を描いている。
グロテスクで暴力的な描写に、そんな彼女らを地獄に突き落としたいという著者の愛憎が見て取れる。

自らの意思を持たず、他者に容易に影響され、他者と自分との区別をつけられないような者について、著者は他の作品でも繰り返し批判的に取り沙汰しており、自らの意思を持つべきであること、自己同一性を確立すべきであるとも繰り返されている。

それは雑に言うと大人になることなのかもしれないが、大人になることは規範や慣習を自らにインストールすることなのだが、現代社会においてはそれら規範や慣習は確固たるものが存在するわけではなくフラットに多様なものが散らばっている。どの規範や慣習のパッケージをインストールするかを選択するか、いつのまにかインストールされているかだ。
このパッケージが周りと乖離したものでありそれを省みることが無ければ社会不適合者だ。
規範や慣習に疑いを持ち、より正しいと思われる方向への修正の軸となるのが自己同一性なのだろう。

舞台選びへの違和感

本作で過剰な描写をされたアイドルとそのオタだが、作品の外側、実際の彼女らや彼らは本作で示されたような状況なのかというと、私の観測範囲に限って言えば全くもって異なって見える。

作中のJST444はおそらくAKBグループという最大のメジャーアイドルグループをモチーフとしているであろうし、そうなると私は正直その辺のお茶の間の視聴者よりも詳しくない。そのためこのセクションの文句は的外れなものとなるかもしれない。

より規模の小さい、私の周りの人々が楽しんでいる現場では、本作での状況とは真逆だと言ってもいい。
欲望渦巻く場であることに違いは無いが、強い意思が無ければアイドルを続けることなど出来ないし、面白いものにもならない。
ステージ側もさることながらフロア側のヲタも、その身体性はかなり強いものだし、周りに神輿のように担ぎ上げられ匿名性なんて言っていられない。そこにはペニスを切り取られた形跡などない。

この作品に対して違和感を持ってしまうのは、本来このようなペニスを持った少女と匿名化した去勢された男達の関係性は、インターネット普及前の二次男オタの病理として示されたものであり、それは現在においてはSNSなどインターネットの場において当てはまるところはあるだろう。
アイドルの現場を舞台にしてしまったことでそれが当てはまらず大きく齟齬が生まれている。舞台設定を誤ってしまい、作品の説得力を低下させてしまったのではと思ってしまう。
繰り返すが、あくまで私の狭い観測範囲においては、である。

本作で語られたような喪われたものたちは、現場にある。