平成死亡遊戯とわたくし
はじめに
この文章は アーバンギャルド のアルバム「昭和九十年」に収録されている「平成死亡遊戯」(作詞:松永天馬 作曲:おおくぼけい)という曲(の主に歌詞)についての個人的な恣意的な感想や見解です。同じような見解を寡聞ながら耳目に触れなかったため書いておこうと思いました。言及しきれない事柄が多すぎるため網羅するのはあきらめました。
アーバンギャルド - 平成死亡遊戯 URBANGARDE - HEISEI SHIBOU YUGI
- アーティスト: アーバンギャルド
- 出版社/メーカー: 株式会社KADOKAWA
- 発売日: 2015/12/09
- メディア: CD
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感想および見解
表層としてのモチーフ
歌詞から受け取れるこの曲のモチーフとして、例えば以下のようなものが挙げられる。
インタビュー記事などからはさらにモチーフや元ネタとなったものが挙げられるが具体例は割愛する。
個人的な思い入れによる感想
二十世紀末、ぼくは二十三時前に目覚めてはテレホーダイで繋がったインターネットのあちら側ばかりを眺めていたし、1999年の7月に世界が終わって二十一世紀なんて来るとは思っていなかった、いや来て欲しくないなとそこはかとなく思っていた。
この世界もしくは社会には絶望する前に希望のようなものは特に見出せなかったし、ただ惰性でモラトリアムを生きていたし、そのモラトリアムの終焉後の事なんて、それこそ死後の世界の地獄か何か。
一方メンヘラ的なものには興味が無かったので、同時代にかつて生きていたはずの南条あやさんの事は少しも知らなかった。また、その他の題材、元ネタとなっていると思われるものの多くをぼくは余り知らない。
ダイアルアップ接続時にモデムから発せられるネゴシエーション音が曲中に使われているが、この音を聴くと海の底から海面へ顔を出し息が出来る気持ちが思い出され気分が高揚する。
だが、そもそもこの音が何か判らずただのノイズと思う人もいるのだろう。
発表時の状況、その約一週間後のミスリード
「平成死亡遊戯」のセリフあり派となし派で朝まで生テレビして下さい。コメンテーターはアーバンギャル、ギャルソンの皆さんに加え、南条あや、ブルース・リー、ターボ向後、白石さくら、庵野秀明そして司会は吉田豪以上敬称略でお願いします! https://t.co/z0iLbOOaWB
— アーバンギャルド松永天馬 (@urbangarde) 2015, 12月 10
この曲が発表された当初、聴衆からはアイドルの生き辛さや憂鬱をインタビューした音声に対して嫌悪感を示す感想が多く聞かれた。
これまで決して曲中に登場させなかった実在の人物の肉声による言葉であること、また率直に書くのを憚られるが、特に少女としての自意識が過剰な聴衆を刺激したことによる反応だろうと考えられた。
個人的な好き嫌いを表明することは何の問題もないが、暫く後、セリフあり派とセリフなし派で議論を促すような松永さんのつぶやきが書かれ
勘繰りをすると、炎上とまでは行かずとも「ネットで賛否両論!」的な実績を作っておきたかったのかと思う。
個人的には、インタビューを挿入したことの意味を探るほうが興味深い事柄だと思うし、あり派なし派で議論させるというのは本質から遠く離れていく、ある種のミスリードのように思う。意図したか否かはわからないが。
あり派なし派という軸の提示が、この曲の本質から眼をそらさせていたし、そこに作り出された状況はある意味この曲の提示する構造を補強していたとも言える。
「平成死亡遊戯」が提示する断絶
「平成死亡遊戯」が提示しているのは、「境界が曖昧だが決定的な彼岸と此岸の断絶」である。
断言してはいるが勿論個人的な見解として。それが全てではないが、ぼくが最も強く意識するのはそれだ。
そのような考えに至ったのは前述のあり派なし派というズレた軸の提示とそこに巻き起こった状況が一つのヒントとなった。
この断絶として示されたもの、発生した状況を以下に例示する。
- 歌詞に示された彼岸と此岸
- インターネットと現実
- 画面の向こうと画面のこちら
- かつて死んだ「あの娘」と「私」
- 二十世紀と二十一世紀
- 昭和と平成
- 何処かの町や国といつもの地下鉄や町
- 状況として発生した彼岸と此岸
- インタビュイーのアイドルと聴衆としての私
- あり派となし派
- 「あり派となし派」と、その議論に乗らない派
- 二十世紀末のモラトリアムを経験した者としていない者
全てを例示していないが、ぼくが強く意識したものがこれらだというだけで、他の人が意識するものは当然違うものになるだろう。
多様な捉え方ができるということは、この曲の情報量が多く構造的にもよくできているからだと思う。
結論
ここで「断絶」が重要な主題であると仮定した場合、「ふたりで話したね」「ふたりで泣いたよね」という歌詞が示すのは残酷なものとなる。
「私」が「あの娘」と共感した事柄として語っているものは「私」の一方的な幻想であり、その結果として二人の間には生と死という三途の川が流れているし、メールは届かない。
意地の悪い論をさらに展開すると、「あの娘」と「私」の断絶は、彼らの曲たちに登場する主人公に自らを重ね合わせ「この人あたしをわかってるあたしの心を歌ってる」と思う聴衆に対する拒絶である。
この断絶を産むための装置として、いつもの「不在の少女」の代わりに登場したアイドルのインタビューが意味を持ち、それに対する聴衆の拒絶を浮き彫りにすることで、「誰か」への同一化や共感を否定する構造が強化される。
(余談だが、レディメイドソングにも通じるテーマだろう。)
元々アーバンギャルドの歌詞における共通的なテーマや考え方の一つとして、人間は孤独な存在であることが提示されているし、登場する少女については「不在の少女」だと繰り返している。
あなたは誰かにはなれないし、誰かではない。それは前向きに捉えれば、あなたはあなた自身であり、だからこそ孤独を感じる。孤独であることや他者と異なることは自らに自覚的であり個を確立した状態であること。
この曲は他者との断絶の提示は、共感や一体感といったものを善しとする風潮に対して冷や水を浴びせ、孤独や他者との相違を肯定しているのではないだろうか。と、捉えると意地悪で悪趣味な曲という印象が途端に慈悲深いものに思えてくる。