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松永天馬 作「自殺者たち」を読んで。その2

初回の感想ではこの作品の構造と寓意を読みとくというアプローチで解読を試みたのだが、その後の読書会で気づかされた事や副読本からのヒントにより、感想が大きく異なるものとなった。

アニメーション的描写とその機能

私の読み方はつい構造的な面に着目してしまいがちなのだが、この作品の構造は実は描写の側に示されていた。読書会の中で挙がった意見として、「背景の描写は細密なのに登場人物の描写はぼやけていて粗い」というものだった。
かつて押井守が「イノセンス創作ノート」で「アニメは情報量の多い背景に対し情報量の少ないキャラクターを配することで成立する」という旨(かなり大雑把な意訳だが……)を記した。
つまり「自撮者たち」は小説という形態ではあるが、描写しているのは「現実」的抽象レベルの世界ではなく、アニメーションとして描かれた世界ということだ。物理法則を無視した登場人物の行動や、メタ的描写もこう考えれば全て理解しやすい。
そして、このアニメーション世界的描写は作者のどのような意図の表れなのかは後述する。

イノセンス創作ノート」では、レイアウトを近景、中景、遠景の三つの領域に分けて、以下のように各レイヤーによる機能を持つと記されている。

  • 近景
    • キャラクターの領域
    • 表面上の物語が進行し、観客やアニメーターが一致して目的意識的に振る舞う場
  • 中景
    • 世界観を実現する場
    • 演出家の目的意識がもっとも支配的な場
    • 最も充実した、情報量の集中する場
    • 真の物語はこの領域において常に進行する
  • 遠景
    • 監督の秘められた物語が展開される領域
    • 最も抽象度が高く、観客にとって最も理解し難い、無意識の領域でもある

小説という形式とアニメーションという映像の形式の表現技法の違いはあれ、本作にもこのような機能分類が当てはまるようにも思える。
遠景とは何かを指すのは難しいが、押井守としては「鳥が飛ぶシーンなど」とのことであり、本作においては「パルプ雑誌『日没』」やヘンリー・ダーガー作品などの表面上の物語に寄与しないオブジェクトの背景描写だろうか。

20世の終わりから遠く離れて

さて、本作の副読本として、おそらく大きな影響を受けたであろう書籍が 斉藤環 著「戦闘美少女の精神分析」だ。
この本は当時よく名前を聞いていたものの、これまで読まずにいた。しかしキーワードとして出てくるファリック・ガールという男根を持つ少女のイメージは、「自撮者たち」の主人公である憂子やライバル役の舞舞子、また背景として登場するヘンリー・ダーガーのヴィヴィアン・ガールズに引用されているのだろうというと思い至らないわけにはいかなかった。
ちなみに「戦闘〜」においても、漫画やアニメーションの描写として、「漫画のコードは(中略)背景は細密に書き込んでよいが、人物はあくまでも記号的省略によって描かれなければならない」と述べられている。
「戦闘〜」ではそのタイトルに反し、メインとして扱われるのは「おたく」の側であり、(戦闘美)少女は空虚な存在と述べられている。この本の結論を極めて雑に書くと、フィクションの戦闘美少女を欲望の対象として消費し、他者を必要とせずに完結する在り方を肯定的に捉えている。

本作においては「オタ」は動物的消費行動を行う空虚な幽霊として描かれ、少女は「人形」と呼ばれながらも欲望を抱き懊悩する存在だ。
かつて、社会の表層としては、男性は主体的に欲望し、女性はその欲望の対象として受動的な役割を与えられていた、と言われる。しかし今やその主従関係は逆転し、女性の欲望に沿って男性はその対象とされたり、または無視される役割が顕在化してきた。表面上の欲望のパワーバランスが傾いたのだろう。
空虚な空想上の存在であった2次元の戦闘美少女達は3次元の少女達の欲望と結びついた。「2.5次元」という表現・概念が標榜されだしたのはもう暫く前だ。かつて2次元の中に存在した「かわいい」は3次元に浸透し、「かわいい」の再生産と先鋭化の主体として、この国の少女達は神通力を持った巫女や神として君臨した。
男達はどうかといえばただ動物的に欲望を充足し続け、また幽霊として空虚な存在として、それは一切本作で肯定的な様子をもって描かれてはいない。

「自撮者たち」において、なぜアニメーション的描写を行ったか。
それはこの舞台となるが男性の欲望に支配された世界であることを表現していると考えられる。それではいささか古臭い紋切り型の切り口なので、もう少し正確には男性的欲望が拡大したその先、あらゆる人々がかわいいという呪力に魅入られた現代日本の価値観および規範、とでも言った方がいいだろうか。
憂子のつぶやく「死にたい」からの終盤における短いカット割りや混沌としたイメージの応酬はそのままエヴァンゲリオンTV版最終話を連想させる。
共通点としては、主観的レベルにおける世界の変革が表されているし、それが必ずしも理想的な結末を迎えるかどうかは楽観視できないことも思わせている。

出発、巣立ち、逃走、旅立ち、失踪という、希望

だが、それでも憂子はその場から出発しなければならない。
語られた物語の中で、主人公やそれと同等に重要な人物が、それまで居た世界からどこか知らない遠くへと旅立つという結末を迎えるものは多い。
個人的にはこのような結末の話がとても好きなのだということに気づいた。
この出発とも、巣立ちとも、逃走とも言える行為こそが、ある種の人々にとっては極めて希望に満ちたものと言える。
この巣立ちは成熟の一歩の一つと言えるかもしれない。もちろん、次に訪れた先で待っているのは転落や退廃かもしれない。ただ、その向かう先は知らない場所であることが重要なのではないか。
まだ見ぬ場所へ旅に出ること、知らない街へ生活の拠点を移すこと。
そして死ぬこと。
何も本当に死ぬことは無い。死と言うよりも生まれ変わること、今のこの場所ではないどこかへ行けるのではないかというのは希望につながるだろう。
現代はメディアや情報技術が発達し、遠く離れた世界のことも知らされた、知った気になってしまい、空想の余地を見失ってしまっている。
だからこそ、知らない場所と、そこへと向かうことが出来るという可能性こそが希望の一つだ。

出ていく者があれば残されるものがいる。
成熟や、大人と子供という話として、出て行くのが成長した雛であるとしたら、残された者は親鳥であったり、未成熟の雛ということになるのだろう。
たとえば自らの居る場がいろんな人々の通過点だとして、そこから出て行く者があったとしても、さみしいことだが悲しいことではない。
そうやって変化し続けることが希望で、別れは喜びと捉えなければならないのではと、年老いて飛べない雛鳥は思う。

日記

自分語りみたいなもんなので特に読む必要はないです。
「自撮者たち」の感想(http://usym.hatenadiary.jp/entry/2016/05/22/182644)を書いた中で、知ってるアイドルヲタの人達の多くは、身体的だし男性性もあるし匿名化する存在ではないなと書いたけど、自分はどうかというと肉体なんてなかったことにしたいし性別のない星に行ってぬいぐるみになりたいしそれこそ幽霊にでもなりたい。だからぼくはアイドルのヲタになるの向いてない。自分が何がほしいかよりまずおもしろそうなものなんでもインプットするようになりたいし、はやく自分を探し出してそのあとすぐに自分をなくしたい。
ぼくは多分それなりに実存的アイデンティティは確立できているのではないかなあとは思うけど(いい歳だし……)、社会的アイデンティティの方はあまり確立していないというか、自己評価が低くてそこに役割としての意味や意義をあまり見出してないし、その必要も無いやと思っていしまっている。低レベルの欲求の方が強い。
いわゆる規範や慣習や常識と呼ばれるものもあまのじゃくなので斜に構えて見てるかんじであんまり安定してないんじゃないだろうか。
ぼくは自分をこどもだと思っているけど、これはこどもへの憧れも含んでるだろうけど、じゃあ大人って何? って思ってその答えを決めきれていないからやぱり大人ではないのかもしれない。

松永天馬 作「自殺者たち」を読んで。

物語が示す世界観と現状認識

自撮者たち 松永天馬作品集

自撮者たち 松永天馬作品集

今回は本書の表題作である「自撮者たち」の感想文を書く。
例によって著者の書く荒唐無稽な世界は現実社会の寓意であるはずだ。

「人形」としての少女

本作で登場する少女達は「人形」であると示されている。
人形は「自発性は皆無だが大事にされる権利」を獲得した者達だ。
主人公である憂子はあらゆる欲望を抱えていることを表明しているが、これは自発的な意思ではない。手に入れられないものを手に入れようとする欲望は、他者に欲望させられたものだ。

人形である彼女達はその肉体が無残に破壊されても物理的な死は訪れず、他者の意思により何本ものペニスを縫い付けられてもタトゥーを入れるよりも容易く受け入れている。
身体としてのリアリティの欠如をこれは示している。

このペニスを宿した少女とは、ただエログロ趣味のためだけに登場したのではないだろう。
たいした理由も無く殺し合いを行う彼女達は、精神科医の斎藤環が「戦闘美少女の精神分析」にて示した「ファリック・ガール」(ペニスを持つ少女)であることを示している、のではないか。(歯切れが悪いのはまだ未読なため、インターネットから情報を拾ってきたため。)
ファリック・ガールは自ら性的な魅力について無自覚、無関心であるらしいのだが、欲に塗れ、自らの性的な魅力を自覚している彼女達が「無垢」だなどと到底思えない。欲望をコントロールできるほどの自己が確立していないとは言えるのかもしれない。
ペニスを持つ少女とは、去勢された男の都合の良い欲望の対象としての記号だろう。
少女が人形として描かれているのは、それがこの社会が望んでいるものであり、それにより彼女達自身もそれを望んだためだ。

「幽霊」としての男

JST劇場に集うオーディエンスである「オタ」達は「幽霊」と表されている。
七十二億人の幽霊は本来性別を問わない者であろう筈だが、本作の物語上の役割としては、ペニスを喪った彼らは不特定多数の男達を示していると考えられる。
幽霊とは社会的に肉体の意味を失い、匿名化された者達の事を示している。

彼らの喪われたペニスとは力の封殺や男性性の忌避を示している。これもまた社会によりそう望まれたものだ。
封殺された力を得たのはこの作品で示されている通り少女の側だ。

一方、登場する男の一人であるパパことパラノ助蔵。彼は七十二億のオーディエンスを抱えるJST444の総合プロデューサーという権力者である。彼は力を封殺されたとは思えないが、辻斬りに半身を分断されても生き続けるという身体のリアリティの無さだ。
ゴシップ誌の記者である林林も地上三百三十五階の窓ガラスをすり抜けて来るという見事な幽霊ぶりである。

身体のリアリティと価値

現代の都市に生きる人々が形作る多層的な社会、とりわけ重きを置かれたSNSなどインターネットによるコミュニケーションの中では、時に身体、肉体は軽んじられリアリティを失ってしまう状況を比喩しているのだろう。
「人形」と「幽霊」共に、その性質は異なりながら。幽霊である男達はその肉体が無視され、人形である少女達は肉体の過剰さによって。
この社会の欲望する方向として、少女の身体は価値の高いものであり、男の身体は無価値どころか有害とされる。そのような認識の中で、この社会の中で「人形」であること、また「幽霊」であることを望まれながら本人もおそらくは望んだ、または望まされているのだろう。

「自撮」へ向かう少女達の欲望

少女達はなぜ「自撮」を望むのか。
それは自己アピールであり、自らを望む形への編集。その表現は自傷に繋がる自らを罰するものであったり、自己の固定すなわち死、自殺の代替であると示されている。自己同一性への懊悩を解消するものであり、すなわち「人形」になりたいという欲望に繋がるものだと。
人形化とは自己同一性確立の放棄であり、それはすなわち他者から容易に強い影響を受け、他者と自らの区別をつけられない状態である。
自己同一性確立の困難さとして、「本来の」自分と、編集した(自撮した)自分との乖離、無垢さと性的魅力という相反する属性を望まれるという状況もあるのだろう。

大人になるということ

著者の作品は同じ事を手を変え品を変え繰り返し主張し続けているのだということを改めて感じた。
本作では自らの意思を持たず欲望に駆られて生きる者達の破滅、不幸な末路を描いている。
グロテスクで暴力的な描写に、そんな彼女らを地獄に突き落としたいという著者の愛憎が見て取れる。

自らの意思を持たず、他者に容易に影響され、他者と自分との区別をつけられないような者について、著者は他の作品でも繰り返し批判的に取り沙汰しており、自らの意思を持つべきであること、自己同一性を確立すべきであるとも繰り返されている。

それは雑に言うと大人になることなのかもしれないが、大人になることは規範や慣習を自らにインストールすることなのだが、現代社会においてはそれら規範や慣習は確固たるものが存在するわけではなくフラットに多様なものが散らばっている。どの規範や慣習のパッケージをインストールするかを選択するか、いつのまにかインストールされているかだ。
このパッケージが周りと乖離したものでありそれを省みることが無ければ社会不適合者だ。
規範や慣習に疑いを持ち、より正しいと思われる方向への修正の軸となるのが自己同一性なのだろう。

舞台選びへの違和感

本作で過剰な描写をされたアイドルとそのオタだが、作品の外側、実際の彼女らや彼らは本作で示されたような状況なのかというと、私の観測範囲に限って言えば全くもって異なって見える。

作中のJST444はおそらくAKBグループという最大のメジャーアイドルグループをモチーフとしているであろうし、そうなると私は正直その辺のお茶の間の視聴者よりも詳しくない。そのためこのセクションの文句は的外れなものとなるかもしれない。

より規模の小さい、私の周りの人々が楽しんでいる現場では、本作での状況とは真逆だと言ってもいい。
欲望渦巻く場であることに違いは無いが、強い意思が無ければアイドルを続けることなど出来ないし、面白いものにもならない。
ステージ側もさることながらフロア側のヲタも、その身体性はかなり強いものだし、周りに神輿のように担ぎ上げられ匿名性なんて言っていられない。そこにはペニスを切り取られた形跡などない。

この作品に対して違和感を持ってしまうのは、本来このようなペニスを持った少女と匿名化した去勢された男達の関係性は、インターネット普及前の二次男オタの病理として示されたものであり、それは現在においてはSNSなどインターネットの場において当てはまるところはあるだろう。
アイドルの現場を舞台にしてしまったことでそれが当てはまらず大きく齟齬が生まれている。舞台設定を誤ってしまい、作品の説得力を低下させてしまったのではと思ってしまう。
繰り返すが、あくまで私の狭い観測範囲においては、である。

本作で語られたような喪われたものたちは、現場にある。

松永天馬 作「神待ち」を読んで。その2

以前、「自撮者たち 松永天馬作品集」に収録されている「神待ち」について読書感想文を書いてみた(http://usym.hatenadiary.jp/entry/2016/03/17/001911)のだが、その後読書会にお誘いいただいたり、関連の深い楽曲が発表されたり、前回援用したラカンの理論について少々勉強したりして考えも変わってきたため、改めて感想文を書いてみたい。

自撮者たち 松永天馬作品集

自撮者たち 松永天馬作品集

改めて「神待ち」についての考察

今回は主要なキーワードであると考えられる「神様」や「結婚」に焦点を絞って考えてみる。

「神様」の正体

タイトルにも使われ、作中に言葉が登場するものの、その正体はおぼろげな「神」/「神様」とは何か。

アーバンギャルドの楽曲「少女のすべて」の歌詞にも登場する「はじめに言葉ありき」、これはキリスト教新約聖書の言葉であり、そこでは言葉はすなわち神であると記されている。ここでラカンの理論を持ち込むと、神とは他者、言葉、規範が該当し、象徴界と呼ばれるものだと考えると収まりが良い。
もちろん日本においては宗教観も言語もキリスト教文化圏とは異なっており、この認識には大きくずれが出てくるだろう。

「この国は一神教の国じゃない。多神教というのかアミニズムっつーのか、要するに神様は至る所にいる。(中略)だからまがいものみたいな自称神様は腐るほどいるだろうな」
「だけど神様は神様、結局、贋物も本物もないでしょ?」

作中でこのように語られている通り、日本において神は一神教のような絶対性はないし、規範や掟に値するものではないかもしれない。何かを与えてくれる、その価値観を共有する、言葉は悪いがご機嫌を伺うような相手のようなものだろうか。相手、とは言っても特定の人物などではなく、漠然とした集合と考えた方がよいだろう。
象徴界というものが日本においてまともに機能していないという話にもなるが、これは昔からの風土的なものであるのかもしれないし、日本が歪んでいるのか、日本においてはあてはまらないのか、そこはひとまずおいておく。
ただ、規範が弱く習慣や感情や他人の目という不安定でうつろいやすい価値観にさらされている状況だということは言えるだろう。
特に現代においてSNSなどネットやメディアによって量的に過剰なコミュニケーションを、多くは小さな集団の中で強いられる時代において、それは殊更だ。

この「習慣や感情や他人の目という不安定でうつろいやすい価値観」こそが「神様」の正体だと言える。
「神待ち」とはつまりその「神様」に選ばれる、「神様」の価値感により高く評価される、欲望されるということであり、身も蓋もなく書くと、小さな集団の中で、不安定でうつろいやすい習慣や感情や他人の目を気にしてその中でチヤホヤされることを望むことだ。

このように書くとこの世界はなんと醜く低俗で価値の無いものだと思えてしまうのだが、幸か不幸か「神様」とはたくさんいるのだ。先ほど書いた「神様」の正体とはその一つに過ぎない。それが貧乏神かご利益のある格式の高い神様か、どの神様を拝むかは自分次第である。

主人公のいづみはそれまで囚われていた「神様」に決別しながら新たな「神様」を自ら選ぶ。
次なる「ラーメンドンブリ」へ飛び込んだのは新たな「神様」の欲望の渦へ飛び込む事であり、それが「小指」であるということは、その世界を爆破することに自覚的であるということだろう。

本作の箴言をざっくりと言うと、自らの価値観や生き方を自ら決めろ、ということだ。
「神様が現れる」というのは神を待つ人々にとって受動的な表現だが、自ら「神様」を選び取った者だけに「神様は現れる」のだ。

「結婚」しましょう

いづみとカントクの決別シーン、彼の頭に打ち込まれたのは小指ではなく薬指であった。これは文中で明確に「求婚」であると示され、それは受け止められたとも明示され、彼らは「結婚」したのだ。
しかし「まがいものの神様」であるとカントクはいづから決別されたのではないのか。
結婚という言葉が示す、ロマンティックで甘やかで幸福な事柄であるという認識からすれば違和感を覚える。(勿論、人によっては人生の墓場であるとか負のイメージが強いかもしれないが)
それは著者が自らを投影した中年男が少女より求められるという薄気味悪い夢想なのだろうか?

本作の序盤、カントクと支配人の会話で、男女間の異物混入により子供が生まれ、それは二人を引き裂くのだと示された。
いづみの薬指がカントクの頭に打ち込まれた結婚はこの異物混入であり、そこで子供が産まれたのだ。かつてカントクであったもの、かつていづみであったものもその元の姿を保つことは無く、新たな世界に落とされた小指、赤ちゃん指が生まれた子供ということだろう。
「小指はわたし自身となって」という表現は、子供は産まれたばかりのころ、母親と自らを分別できない様子を示しているのかもしれない。そうすると「まだ見ぬ別れを決意しながら」とは、革命をおこすつもりの反乱分子としての赤ん坊が母親といつか別の存在であることに気付くことの予感を示しているのか。

つまり、本作における「結婚」とは、社会制度上の婚姻であったり、肉体上の男女の交合などを示してはいない。
自らや相手の意識が大きく変化する、革命のような、快楽というよりも享楽に近い苦痛を伴うような、表面的なものだけではない深い関係性を持つ事を暗喩しているのではないだろうか。そして、そのような関係性を持つことで、両者ともそれまでと同じではいられなくなる。変化という再生を伴う死を迎えるのだ。

余談

アーバンギャルド/ふぁむふぁたファンタジー


アーバンギャルド - ふぁむふぁたファンタジー

この曲が発表された時には「神待ち」を読んだ人には両作品の関連やモチーフの重複に当然ながら気付いただろう。
PVにおいては薬指が切断されながらロケットやミサイルのようなものに変化し、最後は地球を爆破する。新婦に扮した浜崎容子がウェディングドレス姿で新郎に扮した松永天馬に駆け寄ったかと思うと、ブーケに仕込んだ短刀で刺し殺す。
歌詞でも結婚について語りながら「わたし白馬の王子様になると決めた」と宣言するのだ。
歌詞ではないが、曲が演奏される前後のセリフとして「運命宿命、自分で決めろ」「結婚(血痕)しましょう」という言葉が示される。
この曲が「神待ち」の主題について考察するためのガイド、補強材料となった。

またも余談だが「ふぁむふぁたファンタジー」に登場する言葉より連想するのが「少女革命ウテナ」だ。
主人公である天上ウテナは少女であるが白馬に乗った「王子様」にあこがれ自ら王子様のように気高く生きる、というキャラクターだ。そしてEDテーマはJ.A.シーザーの「絶対運命黙示録」である。
おそらくは元ネタとして意識的に使用しているのだろう。詳細な関連性や意味づけについてはテレビシリーズを十数年前に流し観したぐらいで記憶も曖昧なので誰かに考察して欲しい。

余談中の余談

前回の感想では、本作を欲望の物語であると書いた。
間違っているわけではないが些か大上段過ぎた。著者の作品においてはこの欲望という人間の精神に関わる根幹のしくみは繰り返し登場してきており、いきなり総論的なものを求めすぎたようだ。
フロイトラカン精神分析理論については、著者はおそらく影響を少なからず受けているだろうと思われる。アーバンギャルドによって提示された言葉や概念など、これまであまり理解できなかったものも、この理論を知ることで多くのものが繋がったような気になった。(私としては入門も初歩の初歩で門扉に片足をようやく突っ込めたかというとこだが)
本作中に提示された欲望の仕組みからフロイトラカンの理論への関連を思い至ったのだが、よく考えてみればアーバンギャルドがよくテーマとするものとして、所謂「メンヘラ」があるわけで、精神分析的アプローチを彼が持つことはごく順当なものだったのだが辿り着くまで時間がかかったし遠回りし過ぎた。自分の愚鈍さを示すことになってしまった。

松永天馬 作「神待ち」を読んで。

2016/05/06追記

松永天馬 作「神待ち」を読んで。その2 - uを書きましたのでそちらをご覧ください。




「自撮者たち 松永天馬作品集」に収録されている「神待ち」について読書感想文を書いてみる。

自撮者たち 松永天馬作品集

自撮者たち 松永天馬作品集

「神待ち」についての考察

「欲望」の物語

本作は、欲望を主題とした物語である。
ここで言う「欲望」とは、「欲望されることの欲望」であり、哲学や現代思想精神分析なんかで呼ばれるやつだ。(とは言え、そのあたりについて以前本を少し読んでみたものの、自分自身もいまいち理解できていないので誤った事を書いてしまっているかもしれない。)
単なる生理的な欲求とは違う意味での欲であり、他者から与えられるもので、手に入れたと思うとさらに次の欲望が芽生えてくるような性質のものを言うらしい。
いわゆる承認欲求だとかそういうものが該当すると思うが、欲求と欲望の使い分けの観点から混乱しそうな語だ。

本作は、あらゆるものがメディア化される世界の中で、主人公の少女「いづみ」が欲望を抱いていたが、それを打ち破ろうと抗うという話だと、僕は解釈した。

欲望のシステムと作中のキーワード

「欲望」の物語である、と思いついたところから、この構造を読み解くために現代思想だかの記述を調べてみたところ、「欲望」の成立は以下のようなものであるらしい。

  1. 「欲望」は意味実現の欲望である。
  2. 「意味」は差異のシステムで実現する。(何か別の対象が無い=差異が無い場合は意味を成さない、ということ?)
  3. 差異は他者を前提とする。
  4. 「他者」の欲望によって自らの欲望を形成する。

何を言っているのかわからないかもしれない。僕もいまいちよくわかっていないのだが、以下の等式が成り立つのではないかと考えてみた。

  • 欲望=映画
  • 意味=少女性
  • 他者=神

左辺が欲望の要素としての言葉であり、右辺が本作に登場するキーワードだ。
これらのキーワードについて、本作においてどのような解釈ができるかを考える。

映画
具象化した欲望。神の代表(の可能性のある一人)であるカントク(またはその他の神)に映画の主演女優として抜擢される、つまり欲望されることを主人公いづみや量産型少女達が欲望する。
少女性
欲望され消費される対象としての意味である。いづみのJKというブランドであったり、前髪を切りそろえ純白の制服に身を包み、「理想」とされる姿と化した量産型少女達の姿に意味づけられる価値だ。
欲望する他者として、それは誰でもあり、私達自身でもあるし、誰でもないかもしれない。カントクはその一人として顕在化した人物。

さらに、舞台装置として登場する物たちの解釈についても考えてみる。

ラーメンドンブリ
近未来的な世界観ながら大衆的な料理であるラーメンに、欲望渦巻く混沌、欲望の視線としての世界を象徴している。
HD(ハードディスク)
SNSなどを含むメディアや、人々の記憶として、また公共としての世界。そのシステム。
世界に対する異物であり、爆弾や銃弾となり、反抗する意思の行為や意思の顕れであり、ドラマの駆動装置として機能している。

物語の解釈

物語を構成する要素については前述のとおり解釈を行ったが、物語としてどのように解釈できるかを粗筋に沿って考えてみる。

主人公「いづみ」は、この世界で欲望されることを欲望する、少女性を消費されることで自らを満たす、どこにでもいる少女の一人である。いづみ、とは "It's me"=「それは私」、つまり読み手を重ねている、かもしれない。
神の一人であるかもしれない「カントク」。いづみら少女達からすれば、自らを主演女優に抜擢する、つまり自らを少女として欲望するであろう男。彼は醜く下衆な人物として描写されているが、それは彼女が自ら彼を欲望することはない、あくまで彼が欲望することで自らの欲望を満たすだけの存在として描写されているのだろう。

この世界はあらゆる場所に監視カメラが設置されている。それはSNSにアップされる写真・動画であり、つぶやきを綴る者の耳目であり、欲望する無数の他者による視線だ。
カントクのすするラーメンの丼に混入した異物である「指」は店員に回収された後爆発し、店員や店の一部を四散させる。このテロリズムは欲望のシステムに支配された世界に対するレジスタンスの行為と意思である。

こんなテロに遭いながらも、いづみは自らを主演女優として選ばれる事に執着する。
そこに登場した量産型少女達。彼女達も主演女優として自らを選ぶよう求め、カントクの指示に従い屋上より次々と飛び降りる。
欲望する他者の求めるまま、血肉の薔薇を地面に咲かせる事になるが、生命ではなく少女性の散華であると作中で記されている。一例として、魅力の無い男性からの性交渉の求めに応じその少女性・処女性を失わせながらも欲望されることによって一時的な満足を得るなど、浅はかで愚かな、悲しい性を喩えているのだろう。

いづみの番となるが、彼女は量産型達のように飛び降りる事はせず、HDを破壊する。ここで自らを幽霊だと宣言する。つまりは実態はなく、少女性そのものだという宣言だ。いづみは概念としての存在であり、読み手であるという論を補強している。

彼女はカントクに銃口を向ける。自らの薬指の銃弾でカントクの頭蓋を切り裂く。メディアおよびそのシステム、また欲望されることへの拒絶と受け取れるが、小指ではなく薬指である事の含意については今のところ上手い解釈を見つけることができていない。
その後、飛び降りるのではなく空へ飛び立った。

しかし、彼女は小指となりラーメンドンブリへ着水する。
冒頭のラーメンドンブリへの小指混入へループするわけだが、つまり彼女はこの世界を支配する欲望のシステムに対し爆発により抗うことを示唆されている。
革命のような劇的な展開は訪れず、また誰かが同じことを繰り返すのだろう。いくら爆破を繰り返しても、次のラーメンドンブリは待ち構えている。
欲望されることを求めるのは自ら満たすことができない、それこそ「欲望」を抱いているからだが、自らが欲望する側に、つまり神になろうとしても、そのシステムの中の役割を交代しただけで、システムそのものへ抗うどころか補強してしまう。
人間の欲望が世界から無くなることなど無い。それでも、この欲望のシステムに対して抗う事の意義を問うているのだろう。
欲望のループからの脱出。仏教で言う輪廻からの解脱になぞらえているのかもしれない。

消費される少女性、負債としての中年男性

欲望を細分化したテーマとして、少女性の消費が本作で著されている。
少女性の消費というのは、手垢に塗れたテーマではあるが、それだけ普遍的な問題なのだろうから、個人の感想を記すに留める。

僕は少女ではないがそれだけに少女への憧れは強い。
少女性を獲得できずに悲嘆する僕のような者にとって、生まれながらにして少女性を得ている者はむしろ羨ましくさえ思った。
一部を除き、中年男性など欲望されるどころか価値はマイナス、負債であり産業廃棄物だ。犯罪者扱いで嘲笑の的だ。
いささか被害妄想気味ではあるが、自己評価が低く少女に憧れる僕にとっては、少女性とはすなわち宝物のようなもので、産まれながらにして宝物を抱えている彼女達は天上人のようなものだった。
僕が天上人と崇めるのも、欲望するという一つの行為だろう。

彼女達は少女と看做されたときから、本人の望むと望まぬとに関わらず、少女としての価値、少女性を抱くものとして、言い換えると少女性の容れ物として欲望されるようだ。
そして当事者でない僕はそれがどれだけ深刻な影響を与えるか想像が及ばなかった。
彼女達が受ける悪影響について、暴力的な言い方をすれば、中年男性は子供の頃から貧乏で、少女性の資産を持つことができず他の資産を稼ごうとするが、彼女達はあるとき少女性という莫大な資産を子供の頃に与えられ、それは時を経るにつれ勢い良く資産価値が目減りしていく性質で、何もせずに気付いたら一文無しとは言わないが、生活レベルを落とすことができずに破産してしまう、ということなのだろう。

それでは、他者とりわけ男性に対して「少女性を消費するな」と主張するのが有効な手立てとなるだろうか。
否である。
少女性を欲望しているのは男性だけではないし、あらゆる者が少女性は無価値であると認識しなければならない。少女自らが少女性を排し、新たな価値を作り上げるしかない。
アメリカ人のような美的感覚を獲得し、子猫よりも虎、トイプードルよりピットブルを価値ある存在だという文化を作り上げれば、誰も少女を消費することなどないだろう。

どうしても嫉妬深い書き方になってしまった。こうやって嫌われていく。

少女性の消費に対する本作の立場

それでは本作は少女性の消費について否定的な立場を取っているのか。
一見、少女性の消費に反対の立場を示すような描写がされている。少女性を消費・欲望する他者の代表として描写されるカントクは下衆で下品で醜悪極まりなく気味の悪い中年男性だ。そして主人公は少女性が消費・欲望されることに対して反抗する。
しかし、それでも少女性を欲望する世界のシステムは強固なままだし、なにより登場する少女が少女性を纏って描写される限り、少女性を欲望する読者にとっては少女性を纏う少女は善であり、対極にある醜い中年男は悪なのだ。
つまりこの作品は構造的に少女性の消費に対して否定的な立場を取っていないし、少女性が欲望される事実を書き綴られることで、少女性は価値があり欲望されるものだという意味づけが、もしかすると無自覚に行われているのだ。

当然、著者が誰かを思えば、彼が少女性を欲望しているだろうと考える事はむしろ自然だ。
彼の少女への執着は他人事と思えないが、表向きなりにも少女性の消費について自戒している様とそこにどのように至ったのか、それを考えるとまた楽しくもいびつな感情が芽生えてくる。


余談

近未来的要素を配しながら現代と地続きの、どこか懐かしいサイバーパンク的な世界観。サイボーグ登場したり、字幕で会話してみたりと、特に必要が無いのではないかという設定はどこか二十世紀末を彷彿とさせる。その頃に現代思想精神分析などが流行った気がするのだが、そこへ結びつけるためのものだろうか。
また、作中の地の文でも比喩されているが、書割のような背景を持ってきたり小劇場の舞台セットなのか、贋物ぶりを感じさせているのは、意図的なものと考えた方がよいのだろう。
説得力がある文章を書こうとするには写実的な描写をした方が容易だろうに、そうしないのはむしろ書割のような贋物の世界こそが、ある視点ではリアルなものだということを主張しているのか。
メイクとすっぴん。作中で登場したその言葉と丁度対応する対比だ。

Portisheadとわたくし

  • 前置き

ぼくはこれまでHIP HOPの面白さがよくわからなくて、なんだか素行悪そうな芸風が怖いなあ、日本的な謙譲の意識とは対極にあるところが苦手だなあ、と思ったりしていたんですが、ミーハーなことにフリースタイルダンジョンを観たところその面白さ、HIP HOPというものの幅広さや奥深さ、ユーモア、ラッパーのみなさんの魅力を垣間見させていただきました。
今にして思えば、HIP HOPに対するぼくの苦手意識は表層的な、ステロタイプな偏見にに囚われてしまっており、面白いものに対する体験を自ら放棄していたのだろうと思いました。
そして嫌だなあと思っていた部分、謙譲とは反対の在り方は、むしろ爽やかさや誠実さに満ちたものなのではないかと感じるようになりました。
今まで聴いてこなかったジャンルなので何もかもが新鮮。新参ほど楽しいことはないのですが、時間的にも(つい最近の話なので)現場に行くことはしていませんが、YouTubeでいくつか聴いてみたところ、新鮮さも手伝い面白いものがあるなあと思いました。
面白いものに気付けずに遠ざけていた事は自らの未熟さ故で恥じ入るばかりだなあと強く思いました。
余談ですが、ぼくは音楽に対する好き嫌いが激しすぎるなあと自覚はしており、楽しめないことは自らのスキルのなさの所為だと思っています。なのでぼくの好き嫌い云々は特に所謂ディスリスペクト的なものではありません。

  • 本題

ここで少し離れて本題に入るのですが、以前僕の中で妙に引っかかった音楽としてPortisheadがありました。
スペースシャワーTVあたりでたまたま見かけたのが知ったのがきっかけのはずですが、かなり朧気な記憶ではAll mineという曲のミュージックビデオではないかと思いますので1997年ごろの事でしょうか。20年近く前のことだと思うと恐ろしい気分になりますね……。
暗く不気味な印象を受ける人も多いかもしれませんが、それを初めて耳にしたとき、ぼくはこんなに美しく心地よいものがあるのだなあとおもいました。


Portishead - All mine


Portisheadの音楽はTRIP HOPと呼ばれましたが、それを本人は不愉快に思っていたらしいです。(さっきWikipediaでみました)
HIP HOPより多大な影響を受けたらしいですが、ここに来て、20年近くの時を経て、ぼくはやっとHIP HOPの面白さというものへの気付きが20年越しというかなりの遠回りでつながったのだなーと思いました。

ひとまずはTRIP HOPと呼ばれたぼくの好きな音楽、ぼくはPortisheadしか知らなかったのですが他にも聴いてみようと思いインターネットで調べてみました。ある意味良い時代。
すると検索で一番上に引っかかってきたのが鈴木妄想さんの鈴木妄想なんじゃもんさんで、ああ、これがエモいというものか、とロボットが人間の感情を覚えるような気分になりました。Twitterとか気軽だし好きだけど、ブログにちゃんとしたためるのって長期的にみるととても大事な事だなあと改めて思いました。

d.hatena.ne.jp



ひとまず、Portisheadのアルバムで持っていなかった Third を購入して聴いているところですが、またそれまでと趣の違う曲もあり面白く、ぼくの好きなものだなあと思いました。

このアルバムが出たのも2008年だそうで、それなりに小学生高学年の子が成人してしまいそうな歳月が経過しているのだと思うとやはり途方も無い気分になります。ぼくはだいぶ歳をとったせいか、あらゆるものの情報が過多となったせいか、何が新しいかとかよくわからないですね。新鮮な気持ちでこのアルバムを聴いています。新しかろうがそうでなかろうが、好きだなあと思うものには関係ないですね。

Third

Third

平成死亡遊戯とわたくし

はじめに

この文章は アーバンギャルド のアルバム「昭和九十年」に収録されている「平成死亡遊戯」(作詞:松永天馬 作曲:おおくぼけい)という曲(の主に歌詞)についての個人的な恣意的な感想や見解です。同じような見解を寡聞ながら耳目に触れなかったため書いておこうと思いました。言及しきれない事柄が多すぎるため網羅するのはあきらめました。



アーバンギャルド - 平成死亡遊戯 URBANGARDE - HEISEI SHIBOU YUGI

アーバンギャルド 平成死亡遊戯 歌詞

昭和九十年(通常盤)

昭和九十年(通常盤)

感想および見解

表層としてのモチーフ

歌詞から受け取れるこの曲のモチーフとして、例えば以下のようなものが挙げられる。

  • 二十世紀末
  • 深夜から明け方のインターネット
  • モラトリアム
  • 生き辛さ
  • メンタルヘルス
  • 自傷しつつ命を絶った少女と生き残った者

インタビュー記事などからはさらにモチーフや元ネタとなったものが挙げられるが具体例は割愛する。

個人的な思い入れによる感想

二十世紀末、ぼくは二十三時前に目覚めてはテレホーダイで繋がったインターネットのあちら側ばかりを眺めていたし、1999年の7月に世界が終わって二十一世紀なんて来るとは思っていなかった、いや来て欲しくないなとそこはかとなく思っていた。
この世界もしくは社会には絶望する前に希望のようなものは特に見出せなかったし、ただ惰性でモラトリアムを生きていたし、そのモラトリアムの終焉後の事なんて、それこそ死後の世界の地獄か何か。
一方メンヘラ的なものには興味が無かったので、同時代にかつて生きていたはずの南条あやさんの事は少しも知らなかった。また、その他の題材、元ネタとなっていると思われるものの多くをぼくは余り知らない。

ダイアルアップ接続時にモデムから発せられるネゴシエーション音が曲中に使われているが、この音を聴くと海の底から海面へ顔を出し息が出来る気持ちが思い出され気分が高揚する。
だが、そもそもこの音が何か判らずただのノイズと思う人もいるのだろう。

発表時の状況、その約一週間後のミスリード

この曲が発表された当初、聴衆からはアイドルの生き辛さや憂鬱をインタビューした音声に対して嫌悪感を示す感想が多く聞かれた。
これまで決して曲中に登場させなかった実在の人物の肉声による言葉であること、また率直に書くのを憚られるが、特に少女としての自意識が過剰な聴衆を刺激したことによる反応だろうと考えられた。

個人的な好き嫌いを表明することは何の問題もないが、暫く後、セリフあり派とセリフなし派で議論を促すような松永さんのつぶやきが書かれ
勘繰りをすると、炎上とまでは行かずとも「ネットで賛否両論!」的な実績を作っておきたかったのかと思う。
個人的には、インタビューを挿入したことの意味を探るほうが興味深い事柄だと思うし、あり派なし派で議論させるというのは本質から遠く離れていく、ある種のミスリードのように思う。意図したか否かはわからないが。
あり派なし派という軸の提示が、この曲の本質から眼をそらさせていたし、そこに作り出された状況はある意味この曲の提示する構造を補強していたとも言える。

「平成死亡遊戯」が提示する断絶

「平成死亡遊戯」が提示しているのは、「境界が曖昧だが決定的な彼岸と此岸の断絶」である。
断言してはいるが勿論個人的な見解として。それが全てではないが、ぼくが最も強く意識するのはそれだ。
そのような考えに至ったのは前述のあり派なし派というズレた軸の提示とそこに巻き起こった状況が一つのヒントとなった。


この断絶として示されたもの、発生した状況を以下に例示する。

  • 歌詞に示された彼岸と此岸
    • インターネットと現実
    • 画面の向こうと画面のこちら
    • かつて死んだ「あの娘」と「私」
    • 二十世紀と二十一世紀
    • 昭和と平成
    • 何処かの町や国といつもの地下鉄や町
  • 状況として発生した彼岸と此岸
    • インタビュイーのアイドルと聴衆としての私
    • あり派となし派
    • 「あり派となし派」と、その議論に乗らない派
    • 二十世紀末のモラトリアムを経験した者としていない者

全てを例示していないが、ぼくが強く意識したものがこれらだというだけで、他の人が意識するものは当然違うものになるだろう。
多様な捉え方ができるということは、この曲の情報量が多く構造的にもよくできているからだと思う。

結論

ここで「断絶」が重要な主題であると仮定した場合、「ふたりで話したね」「ふたりで泣いたよね」という歌詞が示すのは残酷なものとなる。
「私」が「あの娘」と共感した事柄として語っているものは「私」の一方的な幻想であり、その結果として二人の間には生と死という三途の川が流れているし、メールは届かない。

意地の悪い論をさらに展開すると、「あの娘」と「私」の断絶は、彼らの曲たちに登場する主人公に自らを重ね合わせ「この人あたしをわかってるあたしの心を歌ってる」と思う聴衆に対する拒絶である。
この断絶を産むための装置として、いつもの「不在の少女」の代わりに登場したアイドルのインタビューが意味を持ち、それに対する聴衆の拒絶を浮き彫りにすることで、「誰か」への同一化や共感を否定する構造が強化される。
(余談だが、レディメイドソングにも通じるテーマだろう。)

元々アーバンギャルドの歌詞における共通的なテーマや考え方の一つとして、人間は孤独な存在であることが提示されているし、登場する少女については「不在の少女」だと繰り返している。
あなたは誰かにはなれないし、誰かではない。それは前向きに捉えれば、あなたはあなた自身であり、だからこそ孤独を感じる。孤独であることや他者と異なることは自らに自覚的であり個を確立した状態であること。

この曲は他者との断絶の提示は、共感や一体感といったものを善しとする風潮に対して冷や水を浴びせ、孤独や他者との相違を肯定しているのではないだろうか。と、捉えると意地悪で悪趣味な曲という印象が途端に慈悲深いものに思えてくる。